撮影がはじまると、大くんはふたたびスイッチが入る。眼の色が変わるのだ。カラーコンタクトを入れていなくてもまるで赤にも青にも自在に変えられるような……そんな才能があるように感じた。何度もリッチマンゴープリンを食べてセリフを言う。「リッチな気分を味わいたい日に」とか「贅沢にマンゴーを入れました」とか。「甘さを二人で分け合おう」とか。うちの会社が考えたいかにもというセリフなのに大くんが言うと様になるから驚いてしまう。外国人モデルも撮影に協力してもらい、食べさせあったり。すごくセクシーな視線が絡み合うのを見ていると、私には刺激が強すぎる気がした。きっと、何度も食べてお腹いっぱいになっているはずなのに、嫌な顔をしないで頑張っている。一時間ほど撮影をして休憩に入る時は、さすがにお腹が苦しそうだった。「紫藤さんにお茶出してきて。ねぎらうのも仕事だからな」杉野マネージャーは、私を残して現場監督と打ち合わせに行ってしまう。椅子に座っている大くんの元へ行き、しゃがんだ私はおそるおそるお茶を差し出す。「お疲れ様です。疲れておりませんか?」ギロッと私を睨んだ。「疲れてるに、決まってんだろ」大くんはとひどく冷たい声で言った。しかも、私だけに聞こえるように。ショックすぎて強い頭痛に襲われる。めまいを起こしてしまいそうだった。震える手でお茶を渡そうとすると、お茶をこぼしてしまったのだ。タイミングよくかわしてくれたから、大くんにはかからなかったけど、かなり動揺してしまう。「も、申し訳ありませんっ!」「……ドジ」小さな声で言われる。もう、無理だ。このままここにいるなんて耐えられない。泣きそうになるのを必死で堪える。「本当に申し訳ありませんでした」何度も頭を下げるしかない。様子がおかしいことに気がついた杉野マネージャーが助けに来てくれた。「お茶をこぼしてしまいました」私は杉野マネージャーに事情を大くんが説明すると、一緒に頭を深く下げる。「お前、お茶くらいちゃんと渡せって。紫藤様大変に申し訳ありません」「いいえ。気にしていませんよ。初瀬さんも疲れてきたんじゃないですか? 無理はしないでくださいね」ニッコリと営業スマイルを向けてきた。二重人格だ。心の中でそんなことを思ったけど、まさか口には出せない。「本当にすみませんでした」「あまり、気に
海辺の撮影を終えると、スタジオでの動画撮影に入り、すべて終わったのは二十一時が過ぎた頃だった。思ったよりも早く終わることができて、次のマネージャーが一安心といった様子だ。私も、やっと大くんから解放される(仕事だけど)と思って、少しだけ心が軽くなった。「お疲れ様でございました。明日朝の海の撮影はやらない方向でおります」「そうですか。ありがとうございます」杉野マネージャーに対して大くんは、礼儀正しく話している。「では、那覇のホテルでゆっくり過ごせますね。お二人ともどちらのホテルなんですか?」にこやかに問いかけてきた。「同じホテルなんです」「まさか、ツイン?」「さすがにシングルですよ」次のマネージャーはすごく楽しそうに笑い出した。「お二人がすごく仲良さそうに見えたのでいいパートナーだなって勝手に想像しちゃったんですよ。まさかのオフィスラブかと。あくまでも仕事できているということですよね」「さすが想像力が豊かですね。もちろん仕事できているだけです」社会人としての大人の笑顔を二人とも作っている。そこに池村マネージャーがやってきて、迎えの車が到着する。「今日は本当にお世話になりました」大くんは、見送っているスタッフたちに頭を下げてから車の中に乗り込んだ。最後の最後まで印象がいい。「午前中は空いておりますので、なにかあれば」池村マネージャーは言葉を残し、二人を乗せた車は去って行った。明日、お見送りをして終わりだ。それで、すべて終わり。あとはコマーシャルが完成するのを待つだけ。再開してしまい動揺しなかったといえば嘘になるが、目の当たりにして別世界の人だと思えた。やっと過去の自分から解放されてきたような感じがする。これからは私も新しい恋愛ができるかもしれない。「さーて。俺らも国際通りで飯食うか」「はい」国際通りを歩くと観光客がいたりして、賑わっている。観光だったらよかったなと今になってやっと思えた。杉野マネージャーと居酒屋に入って、軽く食事をする。「仕事だとはいえ、初瀬と二人きりでこうやって食事してるとテンション上がるな」「そ、そうですか?」「俺が隣にいてもドキドキしないの?」「へ?」
いきなりプライベートモードに入ったので私は急に対応できずに困ってしまう。「紫藤大樹を一日中見てたら、俺なんてカスにしか見えないか。ハハ」どこまで本気で言ってるのだろう。でも、杉野マネージャーはお兄さん的存在で一緒にいても苦じゃない。きっと、こういう人と結婚したら幸せな家庭を築ける気がする。私も年齢的に大人になった。友人では結婚や出産をしている人もいるので、意識しないわけではない。今までずっと過去にとらわれてきたので無理かと思っていたけれど、こうやって気に入ってくれている人がいるなら前向きになってみるのも一つの手かもしれない。食事を終えて、少しだけ歩きながらお土産を見る。ささやかな観光気分を味わおう。「会社に、ちんすこうでも、買っておくか」「はい」千奈津にこのガラスのキーホルダー買おうかな。「安くするよ」店員さんに声をかけられて、苦笑いする。買い物を済ませてからホテルに戻った。エレベーターを降りてそれぞれの部屋の方向へ歩く。「じゃあ、また明日もよろしくな」「はい、お疲れ様でした」ドアを開けて中に入ると、どっと疲れが出てきた。「ふぅ……一日終わった」ふかふかのベッドに横になると、体の力がすぅーっと抜けていく。かなり緊張していたので疲れた。もう、眠い。シャワーを浴びて早めに寝なきゃ。重い身体をなんとか起こすと、ブーブーと携帯のバイヴが震える音が聞こえた。会社の携帯だ。誰だろう。すごく疲れていたけど、急ぎの用事かもしれない。「はい。初瀬です」『俺』間違えるはずがない。だって過去に愛した人の声だから。どうして、なんで電話をかけてきたの?頭の中が真っ白になった。でも、きっと、仕事のことでなにか用事があるのかもしれない。「どうされましたか?」『声で誰だかわかるんだ?』「紫藤様ですよね」私は会社の人間として話そうと心がけた。『……今、一人?』「そうですが……」『確認したいことがあるから、俺の部屋に来てくれない?』やっぱり、仕事のことだった。名刺を見て電話をしてきたのだろう。じゃあ、杉野マネージャーに連絡しなきゃ。「では、杉野と参ります」『初瀬さんだけでいいです。エレベーターの前に待ってるから。人目につくから早く来て』「え……、でも」『疲れてるんだ。早く来て』ブチッと電話が切れてしまった。一人
大くんの泊まっているフロアーにある隠しエレベーターの前に行くと、本当に彼は待っていた。氷のような冷たい視線を私に向けてくる。体中に冷たい血液が駆け巡っていくような気がした。カードをかざすと、エレベーターが開く。「乗って」「でも……」「ここだと誰か来るから。早く」断ることができずにエレベーターに乗ってしまった。不安で押しつぶされそうな気持ちになる。大くんの部屋がある階に止まると扉が開いた歩きだす。本当に仕事の話なのだろうか。半信半疑のまま私は後ろをついて行った。「入って」「用事を言ってください。勝手な行動はできません」「……誰かに見られたら困るから早く入ってくれ」大くんは私のことは思いっきり睨みつけ、手首をつかんで部屋の中に入れた。逃げようとしたのにドアの前に立って出られなくしてしまう。「な、何するんですか!」「大声出したって聞こえないよ。誰も助けに来ない。少し冷静になれば?」大くんは、余裕の笑みを浮かべている。「驚かせて悪かった。まさかこんなところで会うと思わなかったからちゃんと話をしたかったんだ」「……」「少しだけ。お願い」そう言われたらやっぱり私は断れずにうなずいた。私の答えを聞いた彼は手を引いてソファーに座らせた。そして、目の前に座る。私はどこを見ていいのか、視線をキョロキョロさせてしまう。すごく広いスイートルーム。奥には大きなベッドが見える。テーブルもソファーもテレビも置かれているものは高価なものばかりだ。「久しぶりだな、美羽」落ち着いた声の大くんをそっと見る。仕事のことじゃなかった。プライベートだけど、期待しているような甘いものではない雰囲気だ。「お久しぶり……です」「元気そうだな」「はい……」目を見るのも怖くて私はまたうつむいた。大くんは、私に何を伝えたいのだろう。「杉野って奴と付き合ってんのか?」「え?」唐突すぎる質問に思考が追いつかない。「付き合ってない……ですけど……」「けど、あいつが美羽に惚れてるってことか。美羽、めちゃくちゃ綺麗になったしな。俺と離れる道を選んで正解だったわけか」「……」「てか、なんでそんなに普通にしてられるわけ? 俺は、撮影中にお前がいて、目障りだったんだよね」ヒドイ。でも、傷つけるような手紙を書いて、嫌われ役を選んだのは自分なのだ。大く
「……何それ」大くんは、芸能人オーラを消して捨てられた子犬のような顔をした。気のせいかな。だって、熱愛報道もあるし、十年も過ぎたのに私を想っているわけがない。そんな貫ける愛なんて、あるはずないんだから。この十年で私も大くんもきっと……変わってしまっただろう。私たちはすっかり大人の男女になっていた。「元気そうでよかったです。紫藤さんの活躍は見ていました。見たくなくても、目に入るくらい活躍されていたから」「美羽を見返すためにな。俺を捨てたお前を後悔させるために仕事を頑張った。俺が大スターになったら嫌でもお前は俺の姿を見るだろうと思ってさ」冷たい口調で言った。私を忘れていなかったのは、少しだけ嬉しかったけど、やっぱりそんなふうに思っていたのだ。「どんな人生を送ってきたんだ」「大学校卒業してここに入社して……。今年の春に部署異動してこの仕事の担当になったの。名前を見た時はびっくりした」彼は黙って話を聞いていてくれたけれど腕を組んで私を軽蔑するように見ている。「……その様子だと本当に子供は産まなかったんだな」赤ちゃんを降ろしたわけではない。産みたくて産みたくて仕方がなかったけど、お腹の中で死んじゃったのだ。喉まで出た言葉を飲み込む。いまさら、何を言っても無駄だ。寝室を告げたところで私たちは過去に戻ることはできないのだ。「美羽は今、幸せか?」「はい」咄嗟に嘘をついた。幸せってなんなのかわからない。けど、大くんと過ごしていたあの日々が一番キラキラしていたように、思う。大くんと離れ離れになってからいつもセピア色の景色を見ていたような感じがした。「ムカつく。なんで美羽だけ……」立ち上がった大くんは、ゆっくりと近づいてきていきなり私のことを強く抱きしめてきたのだ。驚いて目を見開くと、突然キスをされた。咄嗟に逃げようとするけれど、力いっぱい唇を押しつけてくる。「……ん、や、だ」口内を乱暴に舐め回す。必死で離れようともがくと、無理矢理足を開かれた。な、なにを考えてるの?首筋を痛いくらい吸われる。「本当にやめてください!」スーツがグチャグチャになり、目からは大粒の涙が溢れだす。全身のありったけの力を込めて、大くんを蹴飛ばした。すると、案外パタリと倒れた。「……最低っ」「どっちが」「……」これ以上一緒に居たら危ない。
自分の部屋について上がった呼吸を整える。久しぶりのキスで驚いてしまった。ベッドに倒れて、涙を拭う。どうして、あんなことするの?不安になって、はなのしおりを握ろうとポケットに手を入れる。「……ない」慌てて起き上がって探す。間違いなくポケットに入れておいたのに。お守りのように、大事にしていたのに、一体どこへ置いたのだろう。「もしかして」大くんに無理矢理キスをされた時に、あの部屋で落としたのかもしれない。他の物であればいいけど、あのしおりは大事なもの。取り返しに行かなければならない。だけど、もうあの部屋に行く勇気はない。電話をしてみよう。会社の携帯を握るけど、万が一通話履歴を確認されたら……。自分の携帯を取り出し、会社の携帯履歴に残っていた数字を確認しながら押す。『はい』「あの、あの……」『なに、美羽』「声で、わかるんですね」『……で、なに?』イライラした様子で話してくる。「しおり……、押し花しおりありませんか?」『……そんなに大事な物なの? たかがしおりなのに』赤ちゃんの代わりにしていたの、なんて言えない。どうしたら良いの?「本当に大事なものなんで返してもらえませんか」『へぇ。なんで? 杉野からもらったの?』「違います。とにかく、大事なんです」『部屋まで来て確認してみたら? その代わり続きをさせてよ』「どうして、そんなこと……」恋愛報道が出ていたけれど、心と体は別物だと考える人になってしまったのかもしれない。こんな魅力のない身体なのにそれでもいいと本気で思っているのだろうか。『この十年間……、裏切られた思いが膨らんでたから。今日、再会して一気に爆発した』「……」『どうして、平気なの? ごめんなさい申し訳ないと思わないわけ?』なにも言えない。平気じゃないもの。だって、だって、私は大くんに恨まれているとわかっても、大くんのことがまだ好きだって思うんだから。「いっぱい恨んでもいいから、しおりを……」『しおりなんて、知らない。たしかめに来いって』どうしてもしおりだけは返してほしい。『じゃあ、俺が美羽の部屋に行く。何号室?』「な、なにを言ってるんですか?」有名人の彼がホテルを歩き回ったらすぐにいろんな人に声をかけられて大変なことになってしまう。『どうしてそんなに困るの? 彼氏がいるのか?』「いな
ほとんど眠れないまま朝になった。これから大くんをお見送りする。杉野マネージャーも一緒だし大丈夫。仕事モードで頑張らなきゃ。「さて、お見送りだぞ」「はい」ロビーから裏玄関へ向かい待っていると、車はすでに手配されていた。池村マネージャーさんの後ろに歩いてついてくる大くん。顔を見た瞬間、昨晩のことが蘇る。「紫藤様、今回は本当にありがとうございました」杉野マネージャーが頭を下げる。「いえ、こちらこそお世話になりました」相変わらず笑顔の大くん。「あ、そうだ。この辺に本屋さんはありますかね。空港にありますよね」「そうですね」「実は押し花しおりを見つけて」そう言って、胸のポケットから出したのは、私が大事にしていたあのしおりだ。私にわかるようにわざと見せてきたのだろう。「どこにあったんですか?」杉野マネージャーが質問する。「部屋の中です」「返して」と言いたいけど、どうして私の物を持っているのかとか、一人で大くんの部屋に行ったなんてバレてしまったら大問題になる。大くんは、私の様子を窺っているようだ。気持ちを悟られたくなくて目を逸らした。「では、時間ですので」池村マネージャーが言うと、大くんは車に乗り込んだ。もう、会うことはない。切なくて胸が張り裂けそうになる。車が走りだすと、思わず泣きそうになった。生ぬるい風が頬を撫で私は仕事だということを忘れうつむく。今日は、一段と暑い。ジャケットを脱いで腕にかけた。「じゃあ、俺らも……帰ろうか」「はい」歩き出す杉野マネージャーは、ピタリと歩みを止めた。「……紫藤大樹はやめたほうがいい」「え?」驚いて目を丸くすると、近づいてきた杉野マネージャーは私の汗ばんでいる首筋に触れた。「これ、どう見てもキスマークだよな」「虫刺されだと思います……」「ああ、そう」なぜ他の男の人たということを疑わないのだろうか。「夜中に部屋を出てVIPルームの方向に行くのを見たんだよね」誰もいないことを確認していたつもりだったのに、まさか見られていたとは。「追いかけたんだけど少し遅くて、もうエレベーターは動かせなかった」VIPフロアに泊まっている人しか操作ができない仕様になっているからだ。「なんか、変だなって思って……寝る前に携帯でいろいろ調べたんだ。紫藤大樹、若い頃に女の子を妊娠させたスキャン
+東京に戻って千奈津にお土産を渡すとすごく喜んでくれた。「ねーねー、生紫藤大樹はどうだった?」「綺麗な顔だったよ」「いいなぁー」はしゃいでいる千奈津に「仕事しろ」と言って、紙で丸めた棒状なもので頭を軽く叩いている杉野マネージャー。この状況を見ていると、日常に戻った感じがする。あっという間に一ヶ月が過ぎた。私も仕事にだんだんと慣れてきて少しは戦力になってきたのではないだろうか。はなのしおりが無いことに違和感を覚えつつ、なんとか頑張っている。CMもでき上がってきて、最終チェックをして、八月から放映される予定だ。九月からはCOLORのツアーがあるらしく、うちの会社がスポンサーになった。気持ちを押し殺そうとしても、気がつけば大くんのことばかり考えている。好きだとか言ってくれたけど、あれは嘘だったんだろうな、きっと。杉野マネージャーは、あれから大くんのことは聞いてこない。ただ「スポンサーになったんだな」と、ボソッと言われた。「スポンサーになったからもしかしたらまた会ってしまうこともあるかもしれないけど……気をつけて行動するんだぞ」釘を刺されたような気がする。
「じゃあ、まず成人」赤坂は、名前を呼ばれると一瞬考え込んだような表情をしたが、すぐに口を開いた。「……俺は、作詞作曲……やりたい」「そう。いいわね。元COLORプロデュースのアイドルなんて作ったら世の中の人が喜んでくれるかもしれないわ」社長は優しい顔をして聞いていた。「リュウジは?」社長に言われてぼんやりと天井を見上げた。しばらく逡巡してからのんびりとした口調で言う。「まだ具体的にイメージできてないけど、テレビで話をするとか好きだからそういう仕そういう仕事ができたら」「いいじゃないかしら」最後に全員の視線がこちらを向いた。「大は?」みんなの話を聞いて俺にできることは何なんだろうと考えていた。音楽も好きだけど興味があることといえば演技の世界だ。「俳優……かな」「今のあなたにピッタリね。新しい仕事も決まったと聞いたわよ」「どんな仕事?」 赤坂が興味ある気に質問してきた。「映画監督兼俳優の仕事。しかもで新人の俳優を起用するようで面接もやってほしいと言われたみたいなのよ」社長が質問に答えると赤坂は感心したように頷く。「たしかに、いいと思うな。ぴったりな仕事だ」「あなたたちも将来が見えてきたわね。私としては事務所に引き続き残ってもらって一緒に仕事をしたいと思っているわ」これからの自分たちのことを社長は真剣に考えてくれていると伝わってきた。ずっと私から彼女は俺らのことを思ってくれている。芸能生活を長く続けてやっと感謝することができたのだ。今こうして仕事を続けていなかったら俺は愛する人を守れなかったかもしれない。でも美羽には過去に嫌な思いをさせてしまった。紆余曲折あったけれどこれからの未来は幸せいっぱいに過ごしていきたいと決意している。でも俺たちが解散してしまったらファンはどんな思いをするのだろう。そこの部分が引っかかって前向きに決断できないのだ。
それは覚悟していたことだけど、実際に言葉にされると本当にいいのかと迷ってしまう。たとえ俺たちが全員結婚してしまったとしても、音楽やパフォーマンスを楽しみにしてくれているファンもいるのではないか。解散してしまうと『これからも永遠に応援する』と言ってくれていた人たちのことを裏切るのではないかと胸の中にモヤモヤしたものが溜まってきた。「……そうかもしれないな。いずれ十分なパフォーマンスもできなくなってくるだろうし、それなら花があるうちに解散というのも一つの道かもしれない」赤坂が冷静な口調で言った。俺の意見を聞きたそうに全員の視線が注がれる。「俺たちが結婚してもパフォーマンスを楽しみにしてくれている人がいるんじゃないかって……裏切るような気持ちになった。でも今赤坂の話を聞いて、十分なパフォーマンスがいずれはできなくなるとも思って……」会議室がまた静まり返った。こんなにも重たい空気になってしまうなんて、辛い。まるでお葬式みたいだ。 解散の話になると無言が流れるだろうとは覚悟していたが、予想以上に嫌な空気だった。芸能人は夢を与える仕事だ。 十分なパフォーマンスができているうちに解散したほうが 記憶にいい状態のまま残っているかもしれない。 「解散してもみんなにはうちの事務所に行ってほしいって思うのは私の思いよ。できれば、これからも一緒に仕事をしていきたい。これからの時代を作る後輩たちも入ってくると思うけど育成を一緒に手伝ってほしいとも思ってるわ」社長の思いに胸が打たれた。「解散するとして、あなたたちは何をしたいのか? ビジョンは見える?」質問されて全員頭をひねらせていた。
そして、その夜。仕事が終わって夜になり、COLORは事務所に集められた。大澤社長と各マネージャーも参加している。「今日みんなに集まってもらったのは、これからのあなたたちの未来について話し合おうかと思って」社長が口を開くと部屋の空気が重たくなっていった。「大樹が結婚して事務所にはいろんな意見の連絡が来たわ。もちろん祝福してくれる人もたくさんいたけれど、一部のファンは大きな怒りを抱えている。アイドルというのはそういう仕事なの」黒柳は壁側に座ってぼんやりと窓を見ている。一応は話を聞いていなさそうにも見えるが彼はこういう性格なのだ。赤坂はいつになく余裕のない表情をしていた。「成人もリュウジも好きな人ができて結婚したいって私に伝えてきたの。だからねそろそろあなたたちの将来を真剣に話し合わなければならないと思って今日は集まってもらったわ」マネージャーたちは、黙って聞いている。俺が結婚も認めてもらったということは、いつかはグループの将来を真剣に考えなければならない時が来るとは覚悟していた。時の流れは早いもので、気がつけば今日のような日がやってきていたのだ。 「今までは結婚を反対して禁止していたけれど、もうそうもいかないわよね。あなたたちは十分大人になった」事務所として大澤社長は理解があるほうだと思う。過去に俺の交際を大反対したのはまだまだ子供だったからだろう。どの道を進んでいけばいいのか。考えるけれど考えがまとまらなかった。しばらく俺たちは無言のままその場にいた。時計の針の音だけが静かに部屋の中に響いていた。「俺は解散するしかないと思ってる……」黒柳がぽつりと言った。
今日は、COLORとしての仕事ではなく、それぞれの現場で仕事をする日だ。 その車の中で池村マネージャーが俺に話しかけてきた。「実は映画監督をしてみないかって依頼があるのですが、どうですか? 興味はありますか?」今までに引き受けたことのない新しい仕事だった。「え? 俺にそんなオファーが来てるの?」驚いて 思わず 変な声が出てしまう。演技は数年前から少しずつ始めてい、てミュージカルに参加させてもらったことをきっかけに演技の仕事も楽しいと思うようになっていたのだ。まさか 映画監督のオファーをもらえるとは想像もしていなかった。「はい。プロモーションビデオの表情がすごくよかったと高く評価してくれたようですよ。ミュージカルも見てこの人には才能があると思ったと言ってくれました。ぜひ、お願いしたいとのことなんです。監督もしながら俳優もやるっていう感じで、かなり大変だと思うんですが……。内容は学園もので青春ミステリーみたいな感じなんですって。新人俳優のオーディションもやるそうで、そこにも審査員として参加してほしいと言われていますよ」タブレットで資料を見せられた。企画書に目を通すと難しそうだけど新たなのチャレンジをしてみたりと心が動かされたのだ。「やってみたい」「では早速仕事を受けておきます」池村マネージャーは早速メールで返事を書いているようだ。新しいことにチャレンジできるということはとてもありがたい。芸能関係の仕事をしていて次から次とやることを与えてもらえるのは当たり前じゃない。心から感謝したいと思った。
大樹side愛する人との平凡な毎日は、あまりにも最高すぎて、夢ではないかと思ってしまう。先日は、美羽との結婚パーティーをやっと開くことができた。美羽のウエディングドレス姿を見た時、本物の天使かと思った。美しくて柔らかい雰囲気で世界一美しい自分の妻だった。同時にこれからも彼女のことを命をかけて守っていかなければならないと感じている。紆余曲折あった俺たちだが、こうして幸せな日々を過ごせるのは心から感謝しなければならない。当たり前じゃないのだから。お腹にいる子供も順調に育っている。六月には生まれてくる予定だ。昨晩は性別もわかり、いよいよ父親になるのだなと覚悟が決まってきた気がする。女の子だった。はなの妹がこの世の中に誕生してくるのだ。子供の誕生は嬉しいが、どうしても生まれてくることができなかったはなへは、申し訳ない気持ちになる。母子共に健康で無事に生まれてくるように『はな』に手を合わせて祈った。手を合わせて振り返ると隣で一緒に手を合わせていた美羽と目が合う。「今日も忙しいの?」「うん。ちょっと遅くなってしまうかもしれないから無理しないで眠っていていいから」美羽は少し寂しそうな表情を浮かべた。「大くんに会いたいから起きていたいけど、お腹の子供に無理をかけたくないから、もしかしたら寝ているかもしれない」「あぁ。大事にして」俺は美羽のお腹を優しく撫でた。「じゃあ行ってくるから」「行ってらっしゃい」玄関先で甘いキスをした。結婚して妊娠しているというのにキスをするたびに彼女はいまだに恥ずかしそうな表情を浮かべるのだ。いつまでピュアなままなのだろうか。そんな美羽を愛おしく思って仕事に行きたくなくなってしまうが、彼女と子供のためにも一生懸命働いてこよう。「今度こそ行ってくるね」「気をつけて」外に出てマンションに行くと、迎えの車が来ていた。
少し眠くなってきたところで、玄関のドアが開く音が聞こえた。立ち上がって迎えに行こうとすればお腹が大きくなってきているので動きがゆっくりだ。ドアが開くと彼は近づいてきて私のことを抱きしめる。「先に寝ていてもよかったんだよ」「ううん。大くんに会いたかったの」素直に気持ちを伝えると頭を撫でてくれた。私のことを優しく抱きしめてくれる。そして、お供えコーナーで手を合わせてから、私は台所に行った。「給食食べる?」「あまり食欲ないから作ってくれたのなら朝に食べようかな」やはり夜遅くなると体重に気をつけているようであんまり食べない。この時間にケーキを出すのはどうかと思ったけれど、早く伝えたくて出すことにした。「ケーキ作ったの?」「うん……。赤ちゃんの性別がわかったから……」こんな夜中にやることじゃないかもしれないけど、これから生まれてくる子供のための思い出を作りたくて思わず作ってしまったのだ。迷惑だと思われてないか心配だったけど、大くんの顔を見るとにっこりと笑ってくれている。「そっか。ありがとう」嫌な表情を全くしないので安心した。ケーキをテーブルに置くと私は説明を始める。ケーキの上にパイナップルとイチゴを盛り付けてあった。「この中にフルーツが入ってるの。ケーキを切って中がパイナップルだったら男の子。イチゴだったら女の子。切ってみて」ナイフを手渡す。「わかった。ドキドキするね」そう言って彼はおそるおそる入刀する。「イチゴだ!」お腹の中にいる赤ちゃんの性別は女の子だったのだ。「楽しみだね。きっと可愛い子供が生まれてくるんだろうな」真夜中だというのに今日は特別だと言ってケーキを食べて、子供の話をしていた。その後、ソファーに並んで座った。大きくなってきたお腹を撫でてくれる。「元気に生まれてくるんだぞ」優しい顔でお腹に話しかけていた。その横顔を見るだけで私は幸せな気持ちになる。はなを妊娠した時、こんな幸福な時間がやってくるとは思わなかったのだ。「名前……どうしようかなって考えてるの」「そうだな」「はなにしようかなと思ったけれど……『はな』は『はな』なんだよ。お腹の中の赤ちゃんははなの代わりじゃない」大くんは納得したように頷いていた。「それはそうだよな」「画数とかも気になるしいい名前がないか考えてみるね」「ありがとう。俺
美羽side結婚パーティーを無事に終えることができ、私は心から安心していた。私と大くんが夫婦になったということをたくさんの人が祝ってくれたことが、嬉しくて ありがたくてたまらなかった 。しかし私が大くんと結婚したことで、傷ついてしまったファンがいるのも事実だ。アイドルとしては、芸能生活を続けていくのはかなり厳しいだろう。覚悟はしていたのに本当に私がそばにいていいのかと悩んでしまう時もある。そんな時は大きくなってきたお腹を撫でて、私と大くんが選んだ道は間違っていないと思うようにしていた。自分で自分を肯定しなければ気持ちがおかしくなってしまいそうになる。あまり落ち込まないようにしよう。大くんは、仕事が立て込んでいて帰ってくるのが遅いみたい。食事は、軽めのものを用意しておいた。入浴も終えてソファーで休んでいたが時計は二十三時。いつも帰りが遅いので平気。私と大くんは再会するまでの間、会えていない期間があった。これに比べると今は必ず帰ってくるので、幸せな状況だと感で胸がいっぱいだ。今日は産婦人科に行ってきて赤ちゃんの性別がはっきりわかったので、伝えようと思っている。手作りのケーキを作ってフルーツの中身で伝えるというささやかなイベントをしようと思った。でも仕事で疲れているところにそんなことをしたら迷惑かな。でも大事なことなので特別な時間にしたい。
「そんな簡単な問題じゃないと思う。もっと冷静になって考えなさい」強い口調で言われたので思わず大澤社長を睨んでしまう。すると大澤社長は呆れたように大きなため息をついた。「あなたの気の強さはわかるけど、落ち着いて考えないといけないのよ。大人なんだからね」「ああ、わかってる」「芸能人だから考えがずれているって思われたら、困るでしょう」本当に困った子というような感じでアルコールを流し込んでいる。社長にとっては俺たちはずっと子供のような存在なのかもしれない。大事に思ってくれているからこそ厳しい言葉をかけてくれているのだろう。「……メンバーで話し合いをしたいと思う。その上でどうするか決めていきたい」大澤社長は俺の真剣な言葉を聞いてじっと瞳を見つめてくる。「わかったわ。メンバーで話し合いをするまでに自分がこれからどうしていきたいか、自分に何ができるのかを考えてきなさい」「……ありがとうございます」俺はペコッと頭を下げた。「解散するにしても、ファンの皆さんが納得する形にしなければいけないのよ。ファンのおかげであなたたちはご飯を食べてこられたのだから。感謝を忘れてはいけないの」大澤社長の言葉が身にしみていた。彼女の言う通りだ。ファンがいたからこそ俺たちは成長しこうして食べていくことができた。音楽を聞いてくれている人たちに元気を届けたいと思いながら過ごしていたけれど、逆に俺たちが勇気や希望をもらえたりしてありがたい存在だった。そのファンたちを怒らせてしまう結果になるかもしれない。それでも俺は自分の人生を愛する人と過ごしていきたいと考えた。俺達COLORは、変わる時なのかもしれない……。
赤坂side「話って何?」俺は、結婚の許可を取るために、大澤社長と二人で完全個室制の居酒屋に来ていた。大澤社長が不思議そうな表情をして俺のことを見ている。COLORは一定のファンは獲得しているが、大樹が結婚したことで離れてしまった人々もいる。人気商売だから仕方がないことではあるが、俺は一人の人間としてあいつに幸せになってもらいたいと思った。それは俺も黒柳も同じこと。愛する人ができたら結婚したいと思うのは普通のことなのだ。しかし立て続けに言われてしまえば社長は頭を抱えてしまうかもしれない。でもいつまでも逃げてるわけにはいかないので俺は勇気を出して口を開いた。「……結婚したいと思っているんだ」「え?」「もう……今すぐにでも結婚したい」唐突に言うと大澤社長は困ったような表情をした。ビールを一口呑んで気持ちを落ち着かせているようにも見える。「大樹が結婚したばかりなのよ。全員が結婚してしまったらアイドルなんて続けていけないと思う」「わかってる」だからといっていつまでも久実を待たせておくわけにはいかないのだ。俺たちの仕事は応援してくれるファンがいて成り立つものであるけれど、何を差し置いても一人の女性を愛していきたいと思ってしまった。「解散したとするじゃない? そうしたらあなたたちはどうやって食べていくの? 好きな女性を守るためには仕事をしていかなきゃいけないのよ」「……」社長の言う通りだ。かなりの貯金はあるが、仕事は続けていかなければならない。俺に仕事がなければ久実の両親も心配するだろう。